松倉の歴史発見

 


 このコーナーでは、失われつつある松倉の歴史を発掘し検討しようという目的で作りました。議論のきっかけとなれば幸です。

 

松倉を描く

天文年間から天正年間まで風雲つげる越中の戦国史を描きます。

小説・風の門

海道を行く

司馬遼太郎ではありませんが、中世の旅は海道を進みました。ここでは、新たなコーナーとして海道を考えます。

落人伝説

 松倉城が落城して、椎名一族は四散したのですが、魚津市平沢に椎名一族が移り住んだと言われています。この平沢から片貝川奥の相当谷には木地屋部落がありました。奥平沢には50軒・相当谷には30軒あったそうです。相当谷を詰めると木曽ヶ平砦があります。これを片貝の住人がレポートします。

ここにかつて松倉側から敵が攻めてきて多くに人が討たれたといういい伝えが残っています。敵は松倉城から尾根沿いに来たそうで坪野方面から来たものとすれば、この話は天正10年魚津の役の頃であろうと思っています。

西願寺

 郡金山西願寺といい、魚津市紺屋町にある浄土宗の寺院です。寺院の創建は文明2年といわれ寺院はかつては松倉にあったとも言われています。かつて大菅沼を訪れ、坪野城を尋ねたとき、古老はこの城を「シャガンジヤマ」と呼んだ記憶があります。『魚津区域郷土史』によれば、ここを「西願寺山」と称すると言います。そしてこの城には馬乗り石があって現在村社にあるといます。また、ここには「かまど」のような石積みがあったが、これを昭和の始め送電鉄塔の礎石や炭焼釜に使ったといいます。現在も石が散乱しています。また、不可解な土塁の遺構も見られます。

 ここは、上杉謙信の陣跡といいますが、平坦面が余りにも立派で、百間馬場と呼ばれていました。ここに、上杉儀謙信が着信して城を築いたという歴史は事実と思われますが、上杉謙信以前には何があったのでしょうか。私は寺院の存在を指摘します。理由は、先に述べた地名と、かまど跡と言われる遺跡から推定したものです。  坪野城

 文明の頃創建検された西願寺には、永禄12年上杉軍が進駐しここを城砦としたものと思われます。天正10年には、織田軍が進駐し長城を構えて松倉城を封鎖したものと考えられ、この戦の過程で西願寺は衰退し魚津に移ったものと思います。

 

大菅沼の村社にある馬乗石。大正8年に石を割り村社に運んだという

しかしこの石は馬乗石ではなく、僧が石の上で修行をするための石ではなかったろうか。

珠洲陶

 松倉城からは珠洲陶が良く見つかる。下の写真は、大見城平の石垣で私が表採したものです。珠洲焼は珠洲古陶とも呼ばれます。甕や壷などの生活具として平安末期から戦国時代まで珠洲市を中心に焼かれてれていました。珠洲陶は、遠く津軽の十三湊までも運ばれていました。戦国時代に廃絶したため、近年まで、その存在が忘れ去られていました。なぜ姿を消したのかは良く判りませんが、中世の物流に深く関係すると考えています。

 珠洲陶が発見されると、その遺跡の年代判定が可能になります。下の写真の年代判定はわずかな小片なのでよく判りません。しかし、松倉地区では今後色々な発見があるように思えます。

参考文献 「珠洲の名陶」 珠洲市立珠洲焼資料館