椎名太平記 天文の章から
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「今日も良い天気だ。」 馬上の彦三郎は天を仰いだ。 彦三郎の妻、ゆいは松倉城下は初めて訪れる。 「今年は稲穂が良く実って豊作でござりましたな。」 「いやいや米はいくらあっても足りませぬ。」 「金山は最近活気がござって。」 一行は安田神社に詣でて一休みをした。 紅葉が美しい。
すると向こうから一団の騎馬武者が駆けて来る。 ここから先は、椎名領である。 先頭に立つのは家老の武隈左衛門尉である。 「これは金屋殿、遠路まことにご苦労でござった。御屋形様がお待ち申しておりまする。」 「武隈殿。丁重なお出迎え恐縮致します。」 騎馬武者に包まれて深い森を進む。 大浦に至って樹林の間から起立する松倉の城山が見えてきた。 松倉城は天然の要害である。 角川を内堀とし、早月川を外堀として総構えには出城の水尾城が控えている。 早月川を渡って大手門をくぐる。 大手の石の門には白壁の矢倉が構えられ、実に壮麗である。 大手門は白木の香りがする。
「ご立派な大手門を普請されましたな。」 彦三郎は立ち止まって周囲を見渡した。 「兵庫介殿。一年前とは比べ物になりませぬ。」 「いやいやこれも金山のおかげでござるよ。」 「金山でござるか。」 「最近は、皆このあたりまで金山と呼んでおりまする。」 「下手の村が金山谷と名前がついてしまいました。」 「ここから奥の金山から、最近富に金銀が出て、人夫が何人いても足りないくらいでござるよ。」 「ほう、それはどこの山でしょうかな。」 「坊主山でござる。」 「坊主山・・・」 坊主山とは、一行の眼下を流れる角川の源流域にある小さな山である。 「真言の寺のある、あの山でござるか。それは考えも及ばない所でござる。」 「山伏どもは、地の底は皆金だと騒いで、麓近くまで鉱脈を探しておりますよ。」 松倉金山が発見されたのは応永の頃である。 それから百数十年経過しているのだが、近年、更に新たな鉱脈が発見されている。
椎名屋敷の門前には多くの訪問客が馬を繋いでいた。 大手を過ぎると、目の前に覆いかぶさるように松倉城が見える。 そして眼下の盆地に広がる大きな町屋が見えてきた。 通りには多くの人通りが見える。 「なんとまあ賑やかなこと」 ゆいがため息をつく。 この当時、越中でもこれだけの町はどこにもない。 城下の中央、やや小高い丘の大きな構えが、家老である神前殿の屋敷。 更にその上に、樹木に囲まれて見えるのが、やはり家老の一人、武隈殿の屋敷である。 昼時で、幾筋もの炊事の煙が立ち上るのが見える。 町は角川に沿って大きな寺の屋根が見え、町屋が開けている。 この日は、月に数回の市が開いていて実に賑やかであった。 大手から下って角川の橋にかかると、子供達が手鞠歌を歌っていた。 (おらのととさま かなやまへ) この歌が妙に彦三郎の耳に残った。 やがて角川の橋を渡って山を少し登ると、大きな屋敷が見えてきた。 椎名の御屋敷は山麓にある。 武隈左衛門尉に先導され、彦三郎は、ゆい、兵庫介と共に館の門をくぐる。 椎名の屋敷は表が対面所で奥に居館がある。 式台からハレの書院に通された。 開いた障子から、城下の喧騒がここまで聞こえる。 しばらくして、どんどんという足音が聞こえてきた。 「ご苦労でござった。」 一同深々と礼をする。 この館の主、椎名右衛門大夫康胤 当年、三十一歳の若き武将である。 かつては、椎名家は越中守護代であった。 父の慶胤が、二十五年前の永正十七年、越後との合戦に破れ、今は長尾家の隷下に属していた。 慶胤は道山と号していたが、天文九年五〇歳で没し、康胤が家督を継いだ。
「お久しゅうございます。」 「妻のゆい共々、ご要望の種子島、持参仕りました。」 「おお、ゆい殿か。いつも、金屋殿には無理難題を申してすまんのう。」
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松倉城と城下町を判りやすく解説するため、 ご愛顧頂いた椎名康胤公と松倉城の盛衰を描いた 小説から一部を抜粋訂正して掲載させて頂きます。 |