椎名太平記  


早月川右岸を上流に向かって歩く一団があった。

彦三郎の一行である。

兵庫介の屋敷を早朝立って松倉金山を巡るのである。

ここはまさに山水の風景を描くようだ。

起立した尻高山の脇から小早月川への道を進む。

突如、ガサガサと柴を踏みしめる音がした。

「熊か。」

先導の武者が槍を構えた。

彦三郎はゆいをかばう。

その一行の背後、左手の山から男が駆け下りてきた。

そしてものすごい勢いで街道を駆け下って行く。

すると街道の前方から数人の武者が駆けて来た。

「関所破りだ。」

「曲者はどこに行ったか。」

大声でわめきながら近づいてきた。

彦三郎が、背後を指差す。

「かたじけない。」

一隊の武将は、馬上の彦三郎を見て目礼し、隊列の横をすり抜けて行く。

 

「金山破りか。」

川のせせらぎを聞きながら、大きな曲り角を抜けると、そこには柵があって、番卒が警備している。

柵は丸太を荒縄で縛った簡素なものだ。

一行の先触れが関の入口で到着を告げる。

役宅から関守、大崎太郎右衛門が転げるように出て這伏した。

「彦三郎殿、道中ご苦労でございました。」

「御屋形さまからの御指図どおり、万端整えてござりまする。」

「ではご案内仕ります。」

「かたじけなく存じます。」

と挨拶し彦三郎は関を抜けた。

一町ばかり歩むと、

「山の中に、こんな町があるなんで信じられないわ。」

ゆいが驚くほどの大都会が出現している。

 虎谷は左右に山が起立する谷に開けた鉱山町である。

名前のように虎が住むような険しい谷であるが、川に沿って街路が伸び、その左右に千軒はあろう町屋が出来ている。

ここには遊郭ができ、夜になると山師を迎える女たちの嬌声が聞こえてくる。

ここには真言密教の寺もある。

ここで最初に金を発見したのは、この寺の山伏達である。

山伏は秘術を駆使し修行に明け暮れるが、しかし生活の糧は必要なのだ。

虎谷から、一里ばかり奥に松倉金山が開けている。

松倉金山から採掘された金を虎谷まで降ろし、精錬するのである。

鉱山では、採掘に使う工具が必要で鍛冶屋は何人居ても足りない。

彦三郎は、ここではその棟梁として采配を振るうのである。

彦三郎の鍛冶屋敷は、対岸にある「火の番山」と呼ばれる、山麓に構えられていた。

橋を渡って新築の屋敷に着いて馬を降りる。

大きな土間のある三〇坪ばかりの屋敷だ。

「右衛門大夫殿は手回しが良いのう。」

しかし彦三郎は、ここで採掘工具を作るつもりは全く無い。

 

「ところで大崎どの。先ほど曲者を探索しておられたような。」

「金山から金を盗み出そうとするものが後を立ちません。」

「見つけ次第切り捨てる所存。」

「・・・」 

彦三郎には返す言葉が無かった。

山の掟は実に厳しいのである。

 

「殿さま、ゆいは常泉寺に詣でたいのですが。」

 彦三郎がうなずく。

「常泉寺は大熊にございます。拙者がご案内仕りましょう。」

 大崎太郎右衛門が案内を申し出た。

常泉寺は、椎名家の菩提寺である。

椎名家の菩提寺は、かつては東山の雲門寺であった。

永正の合戦の折長尾為景に焼き払われ、椎名氏は松倉城の西方、大熊に常泉寺を建立したのである。
大熊にも普請が盛んに行われている。

「大崎さま。山の中にたくさん家を建てております。賑やかですね。」
「そうですよ。山から金銀がたくさん出るので、金掘りに界隈から人がたくさん集まるのでござる。」
「こんなところにも金がでるのですか。」
「川原でも砂金が取れまする。」
 眼下に角川が見える。
「この上の川原波から鉱脈が見つかったので至る所、山師が入っております。」

河原波金山は、天文二年に発見された。

産金量は年毎に増え、町屋も千軒を越えている。

一行は大熊への山道をうねりながら進む。
 常泉寺の門前に着いた。
 「下馬」という文字が飛び込む。
 常泉寺の山門は街道脇にあった。
 裏山にはまだ残雪がある。
「奥方さま、ご住職さまにご挨拶致しましょう。」
 山門を過ぎると、右手に鎮守が見え、左に大きな塔頭がある。
 寺の小僧がたえ一行を見つけ、屋敷に走りこんだ。
 ここには、異母兄弟である常泉寺住職松室文寿和尚が住んでいる。
「ようこられた。」

文寿和尚は、ゆいを庫裏に招き入れる。
庫裏は大きく、たくさんの僧がいる。
そして、僧に交じってたくさんの人が働いていた。

「和尚さま。お寺の中も実ににぎやかですね。」
「山が賑やかで、それを賄うためにたくさんの町屋ができておるのです。」
「そして皆さまに、よい来世を願うてご寄進頂いております。」
「では参詣いたしましょう。」
 本堂は、赤坂とよばれる山の山腹にある。
 途中の道は結界の水路となり身を清める。
「和尚さま。最近、大きないくさが起きると皆噂をしております。」
「ゆいはこわくてかないませぬ。」
「それは皆同じこと。ゆい殿、ひたすら神仏の加護を願って心安らかになることじゃ。」

 

同じ頃、彦三郎は虎谷の鍛冶屋敷で頭を抱えていた。

「これはどのように細工すればよいのじゃ。」

彦三郎は、銃を分解して筒先は出来ると見たが、銃底のねじの加工方法が判らない。

筒先を眺める。

「しかし面白い方法じゃ。」

「南蛮にはこのような術がたくさんあるのか。」

雄ねじは何とか出来た。

雌ねじの製作が良く判らないのである。

「これは火造りしかない。」

 思案の末の結論であった。

天文十二年八月二五日、種子島に漂着したポルトガル人が携えていた二挺の小銃を,領主種子島時堯が買い上げた。
 伝承によると、刀鍛冶の八坂金兵衛が、銃の製作を依頼されたのであるが金兵衛が造れなかった部品が一つあった。
 それは、火縄銃の筒底の部分、雄ねじがねじ込まれる、銃底の中の雌ねじであった。
 この火縄銃の銃底をふさぐ「ねじ」が,日本人が最初に見た「ねじ」であるという。