これまでの城郭研究史から一般的な定説を述べれば、中世の城郭は日常的に居住する平地の館と非常時に立てこもる城があり、これは発掘結果からみると平地に築かれた館からは中世の遺物は出土するが、山上に築かれた城からは遺物の出土は希であることからある程度立証されている。 これらから観察すれば、山上に築かれた城は一過性の遺構であると判断できる。現代の我々が考えても、山上の城郭は人が生活するためにはあまりのも不便であるが、山岳に広大な遺構を有する城郭が、一過性の遺構であるとするならば、城郭研究を標榜する研究者は、まず城郭の過大評価を訂正しなければならない。 すなわちそれは、山岳城郭の利用率の有無であって、尾根にいくつもの遺構が現存していても、はたしてそれが戦時に利用されていたのであろうか再検討しなくてはならない。 過去の城郭遺跡を観察すると、城郭遺跡の構造の優劣と合戦の勝敗は必ずしも一致しない。 地方での中世の城郭戦は、領国の境界の出城か外郭の大手虎口付近で勝敗が決せられる例が多く、本城の本丸まで敵が攻め込む例は少ない。 これらから推定すれば、戦国武将には城郭の合理性・要害性は必ずしも必要でなかったようである。 しかし、この論は織豊系部将や一部の戦国大名と在地勢力とのの比較論には適用できない。 なぜなら、織豊系部将に途用されるには科学的・合理的思考の持ち主でなければならなかったのである。
では、戦国武将にとって城の縄張とは何だったのだろうか。 戦国大名はまた侵略者であったという事実である。侵略者は機動的な軍事力を行使して、国人や在地土豪を制圧していくが、そのためには、軍団が安全に駐屯できる拠点と補給ルートが必要である。そのための備えさえあれば、中世の部将にとって城の縄張の構造的不備は城郭研究者が指摘するほど意識の中に無かったのではないかと考えられるようになってきた。 城は人が築き人が守備するものであって縄張で守備できるものではないのである。 次に、中世の建物遺構は、近世から見るとかなり小規模で、中世の城郭は、狭い内郭・主郭にかなりの人数が入っていた疑いがある。たとえば主郭の広い縄張は、ここに最大数百の城兵が駐屯していた疑いがある。 主郭の占有面積は、駐屯軍の規模に比例するが、この事実を検証しなければならない。これを、天正10年前後の各地との城郭の比較検討の事例では、佐々成正が加賀と越中の国境に築いた城郭群の主郭の構造でも指摘でき、武田軍が占領した各地に築城した城郭にも当てはまる。 戦国大名が制圧した地域の駐屯軍の陣城を築城・確保するとき、指揮者は以下のように考えるであろう。 1・まず総兵力を分散せず安全に収容できること。 2・指揮者が兵を監視し逃散を防ぐ工夫が必要なこと。 3・必要な時に機動的に転進できること。 城の虎口は城外だけでなく、城内にも向けられていたとも考えられるのである。 以上が筆者の占領地に築かれた城の縄張に関する基本概念である。
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