一 向 一 揆(越中編)
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血染めの名号 元亀元年(1590)9月、本願寺光佐は、諸国の門徒に檄文を送り、大坂で挙兵して、織田信長と相対しました。これに応じて越中各地から門徒が大坂に馳せ参じましたが、上平村漆谷念仏道場には、南無阿弥陀仏の掛け軸に血判を押して43名が出陣したと伝えます。
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一向一揆 浄土真宗は、鎌倉時代、親鸞上人が阿弥陀仏を信じることのよってのみ救われるという他力本願の念仏を布教したことの始まります。その後、本願寺8世蓮如上人が各地を布教し、爆発的な勢いで信者が増えました。
一向一揆とは、文明年間から天正にかけての約百年間、本願寺教団を中心とする真宗門徒が起した一揆を言います。真宗は各地で根強い信仰基盤を築きましたが、北陸では特に根強いものがありました。そして布教は日本海交流に乗って遠くは酒田まで及びました。 文明3年(1471)蓮如は吉崎御坊を開き布教しましたが、これによって北陸は真宗門徒が急増しました。蓮如は、文明4年、越中各地も訪れました。 特に加賀は加賀大坊主が勃興し、この一向一揆は、長亨二年(1488)富樫政親を滅ぼして加賀一国を領し、天正8年(1580)金沢御坊が陥落するまで「百姓の持ちたる国」とも呼ばれました。 本願寺は、石山合戦で織田信長と対陣したが、越中や加賀からも数多くの門徒が参陣しました。越中では、井波瑞泉寺、国府勝興寺、城端善徳寺などが活躍しました。 椎名康胤も一向一揆の誘いに乗って上杉謙信と相対したのですが、越中の一向一揆には全ての真宗寺院が参加したとは思えない節があって、実に不可解なのです。
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蓮如画像 |
毛利氏黄旗組軍艦旗 |
勝興寺 善徳寺については、善徳寺のサイトで詳細に述べていますので、勝興寺について述べてみたいと思います。勝興寺は、文明年間、蓮如の叔父如乗によって、富山県福光町土山に創建されたと言われます。以来、明応3年(1494)に高木場(福光町高窪)、永正16年(1519)に安養寺(小矢部市末友)、国府へと四回移転したことが知られています。 土山には、土豪、杉浦宗九郎(通称万兵衛)の屋敷があり、その土山に勝興寺が建立されたのです。 この土山には、興味深い地名が残ります。それは、御門という地名と、馬出を備えた虎口の遺構です。城門の周囲には幅10メートルはあろうと思われる空堀が存在します。 土山は、蓮如四男、蓮誓が高木場に移るまでの16年間居住しましたが、現在、この御門一帯の畑から中世の珠洲陶等を表採できます。ここには、町屋等の居住施設があった疑いがあります。この一帯が周囲の稲を土塁と見立てた大規模な寺院と考えることが出来ます。
安養寺は、その後、高木場に移転しました。この頃、一向一揆は、文明13年(1481)砺波郡を領していた石黒党を山田川の合戦で滅ぼし、医王山信仰の中心であった天台宗の古刹医王山惣海寺をも滅ぼしてしまいました。
更に末友に移りました。上の写真は、上が末友安養寺の現況です。左下が鐘撞堂跡。右下が空堀遺構です。勝興寺はまさに、山から降りてきたというイメージを持つ寺院なのです。
安養寺御坊は小矢部川の下流に位置し、土山や高窪と異なり平野に開けた寺院でした。安養寺御坊は、一辺が200メートルの方形の寺院で、北側に本堂があったといいます。ここは堂屋敷と呼ばれています。そして東側を寺町と称していました。この寺は惣構えで囲まれ、寺の東を大門と称していました。現在もここは周囲より一段高く傾斜しているのが伺えます。 この安養寺御坊の出現は、従来の寺院のイメージを大幅に変えるものでした。北陸で文明年間創建された真宗寺院の多くは、山の中腹に建立されますが、安養寺御坊は「仏法」の修業道場という性格から、役所を兼ね備えていた疑いがあるのです。
このような寺院の移転の背景には何があったのでしょうか。私は、真宗の歴史を分割して考える必要があると思うのですが、とにかく、かつては勝興寺の由来も山岳密教に辿る必要があるのです。 そして、この地域の行政権を勝興寺が得た疑いもあるのです。
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石山本願寺 ここで話題を変えて、石山本願寺について考えてみましょう。大阪は本願寺の影響が大きいところです。そして、寺内町も大いに発展しました。富田林・久宝寺・八尾などです。これらの寺内町に共通するのは、「寺内権」でしょう。
織田信長は、寺社が領地を得て、武家と対等の武力を有することに対して、これを徹底的に排撃しました。上の「石山合戦陣図」は、石山本願寺を包囲する織田信長の陣(赤色)が描かれているが、越中からも、門徒が石山本願寺に参陣しているのです。
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善徳寺
善徳寺門徒も、本願寺を支援しました。軍事的には門徒が石山本願寺や加賀を転戦したようです。 この善徳寺は、永禄2年(1559)城端に伽藍を定めて以来、天正13年(1585)に豊臣秀吉と講和するまで、瑞泉寺、勝興寺と並び、越中の一向一揆の拠点寺院として活躍しました。 特に善徳寺空勝は、本願寺を強力に支え、門徒を率いて各地を転戦したと言われています。特に善徳寺は、一向一揆の中心寺院であったにもかかわらず、この寺院の伽藍は戦国時代の戦災を受けず、建て替えはあったにせよ、その一部の建物が現在まで残存する唯一の寺院なのではなかと思われます。
いったい彼らを支えたものは何だったのでしょうか。 私は、この背景には以下の2点があると考えます。
1・白山から石動山に連なる、山岳信仰の世界で、一向一揆の温床となった加越国境は寺社の所領であった。 2・鎌倉時代、親鸞上人が越後に流される際、上人が通った道筋にその伝承が残るほど真宗の布教が行われていた。
しかし、私は、ここにある人物の存在を感じます。
天正9年、佐々成政が砺波郡を攻略したとき、瑞泉寺や勝興寺も善徳寺の付近に門徒ともに寺院を構えていたのです。では、佐々成政は、なぜ善徳寺を攻めなかったのでしょうか。恐らく攻めることが出来なかったと思います。
理由は善徳寺6世・空勝にあると考えます。善徳寺5世佑勝は、天正9年6月17日、43歳で没しました。実は6世空勝はこのとき41歳でした。室は佑勝の子女とあります。この空勝は、石山合戦に参加し各地を転戦した武勇赫々たる法師であると著名です。 私が考えるに、空勝は石田西光寺の出身でしたが、善徳寺の侍大将としてその力量が抜きん出ていたものと思います。5世佑勝が没した後、風雲急を告げる善徳寺を支える切り札として門徒から頼られて寺を継いだのでしょう。空勝は本願寺教如のよき理解者でもあったと言われ、教如が密かに善徳寺を訪れて悲運の涙に暮れたといいます。
城郭遺構を取り去って、ひたすら念仏する本来の信仰の姿に戻ったのでしょう。
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新川郡の事例 新川郡の事例について見て行きましょう。 新川郡も浄土真宗の教化が進んだ地域でした。例えば、「滑川市史」には、願称寺の事例が掲載されています。滑川西光寺の開祖伝説によれば、永正13年(1516)持専寺に本願寺九世実如が立ち寄り説法した。これを聞いた神田左京祐定は感悟することがあり、西光寺の開祖となったといいます。 願称寺は、寺伝によれば、永和2年(1376)年に瑞泉寺の法系として砺波市中村に創建された寺院ですが、この末寺として、新川郡堀江に「速成坊」を開きました。 この速成坊は鹿熊城主、椎名小四郎の保護が厚く、大いに繁栄したと言います。この坊の七世綽養の室は、椎名家の出身だったと言います。この速成坊に関連深い、称永寺の事例も興味深いものがあります。 いずれにしても、戦国末期には雪崩を打つように、越中の人々は浄土真宗に帰依していったのです。 |